「物理学校」(中公公論新社2006年第4版)より抜粋

つれづれなるままにお読みください、(Taky

@  明治14613日:東京大学理学部仏語物理学科を卒業した22名の学徒が
   資金を出し合い、東京物理学講習所を開設し神田小川町に建坪30坪の校舎
    を作る。(17年の台風で全倒壊、その後何回か倒壊)
 
A  卒業試験が難しく、明治39年頃は入学者1079名に対し卒業者は585.4%
   (単純に計算すると毎年2〜3%台)、
    卒業試験のための塾も出来るような次第


学生重視の規則で、教員が講義を欠いた場合は教員は
  1回ごとに金25銭を本校に拠出しなければならないなど。





 ◎ 実力主義が世間に広く認められ、物理学校卒業者は外国語試験だけ
  で專科は無試験で明治30年頃は東北帝大理科の正科には入学する
  ことが出来た(文部省が認めた特例)
 
◎ 明治45年、早稲田大学に理工学部が誕生し、身売りの話が出たが
   立ち消えとなった。
 大正57月、 私立で初めての理学博士号が小倉金之助氏に
      東北帝大(今の東北大学)より贈られました。